株式会社長崎高島水産センター

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高島 北渓井坑とグラバー別邸跡

Ⅰ. トーマス・グラバーについて

産業革命遺産のひとつとして世界遺産に登録された「高島炭鉱 高島北渓井坑」(タカシマホッケイセイコウアト)は、日本の産業としての炭鉱経営の出発点となった場所です。

トーマス・グラバーの肖像北渓井坑跡

最初の石炭発見は1695年(元禄8年)に島民である「五平太」(島で唯一の宿泊施設の名前になっています)が、たき火をしている時に、木の下にあった黒い石が燃えだすのをみて腰を抜かし、当時の領主であった佐賀藩に届け出たところから始まります。

佐賀藩では地表に露出した石炭を採炭し、有田や伊万里の陶器製造用燃料として使っていました。その後、日本開港の1859年(安政6年)までには、島のあちこちの坑道が掘り進められます。

この年にトーマス・グラバーが、「ジャーディン・マセソン商会」の助手として、初めて来日しています。1861年にグラバーは、それまで日本との貿易業務を行っていたケネス・マッケンジーが代理人を務めた「ジャーディン・マセソン商会」や「デント商会」といった大手の貿易商社の代理人を引き継ぎ、新しい居留地の外国人商人の間でも傑出した存在になっていきます。

この1861年には長崎の外国人による商業会議所が設立され、グラバーはその責任者として任命され、近代的な国際貿易を開始していきます。

翌1862年に、グラバーは「グラバー商会」を発足させ、日本茶の輸出や外国人居留地の借地経営などで財を築き、1863年(文久3年)に来客用の建物としてグラバー邸を南山手の一本松のある山腹に建設します(明治中頃まで、グラバー邸は一本松と呼ばれていました)。

時代が幕末に向かう中、グラバーは新しい体制の到来を予見し、禁止されていた薩摩、長州、土佐の藩士らと取引を拡大していきます。

その後薩長は、「生麦事件」(1862年)などのイギリスとの紛争による敗北から、方針を海外諸国との協力と技術導入に転換し、1866年、グラバーはイギリス公使ハリー・パークスを薩摩に迎える手はずを整え、友好関係が確立します。薩長と外国との関係修復に貢献したグラバーは坂本龍馬以上に、明治維新の影の功労者でした。

政情不安が高まる中、各藩は幕府との衝突に備えて、船や大砲、小銃、弾薬といった武器の調達をグラバー商会を通じて行うようになり、グラバー商会に莫大な利益をもたらします。

その後も討幕運動の擁護者であったグラバーは、坂本龍馬などの若い志士に西洋の立憲君主制の良さを説いたり、伊藤博文や井上馨といった後の明治政府の要人となる若者達の英国への密出国を手助けするなど、明治維新へ向けて大きな役割を果たしていきます。

その後、1865年には日本で最初に蒸気機関車を輸入して、長崎の大浦海岸で走らせ、日本の鉄道の父とも言われています。

さらに世界遺産として指定された小菅修船場「ソロバン・ドック」を、イギリスのホール・ラッセル社の技術を使って作り上げ、日本最初の近代的なドッグとしての造船技術や造船技師の育成の場を提供していきます。小菅修船場は1869年(明治2年)に幕府に買い上げられ、その後、1887年(明治20年)には三菱長崎造船所に吸収されました。現在は使用さていないものの、日本最古のレンズ造り建物である巻き上げ小屋やボイラー、レールなどがそのまま残されています。

小菅修船場

Ⅱ. 高島炭鉱

明治維新の直前に、トーマス・グラバーと佐賀藩主・鍋島直大は西洋の機械導入による採炭方法の改善を話し合い、1867年(慶応3年)に採炭用の機械購入と英国人技師の雇用を行っています。1868年(慶応4年)、グラバー商会と佐賀藩は、高島での新規採炭事業についての契約を交わします。これは日本と外国の事業所間で行われた最初の事業になりました。

同年には採炭作業が開始され、翌1869年(慶応5年)には、地下45mの所に広大な炭層が見つかります。グラバーは輸送用レールを坑口から波止場まで敷き、蒸気エンジン、巻き上げ用ケーブル、給水ポンプを設置して、日本で最初の近代的炭鉱として操業を開始しました。

この最初の縦坑が北渓井坑(ホッケイセイコウ)と呼ばれています。

北渓井坑からは大量の良質な石炭が採掘されましたが、1876年(明治9年)に、浸水のため操業を停止します。その後は、島民のための貴重な真水の供給源・井戸として使用されました。

この頃、グラバーは他の事業で多額の赤字を出しており、資金の担い手であったジャーディン・マテソン商会からあらゆる債務の返済を迫られたため、高島炭鉱と機器の所有権はオランダ貿易協会に移ります。その後、日本で最初の労働争議と言われている1872年(明治5)に労使間紛争が起き、数十名が命を落とす事態となります。これを見た明治政府は介入し、35万円をグラバーに渡し、高島炭鉱をオランダ貿易商会に買い戻させます。しかし、同年外国人が日本の炭鉱を所有することを禁じる法律ができたため、後藤象二郎が社長を務める「蓬莱社」に払い下げられました。

この蓬莱社での経営はあまりうまく行かず、1880年(明治13年)にグラバーは高島炭鉱の所長の座に付き、慶応大学の創始者福沢諭吉ととともに、高島炭鉱の身売りに奔走し、「三菱商会」の岩崎弥太郎に経営権が移ります。岩崎弥太郎は海運業で大成功を収めた人ですが、三菱の海運には高島炭鉱の石炭が活用され、三菱財閥の礎を築いたと言われています。

後藤象二郎邸跡の碑岩崎弥太郎の像

Ⅲ. グラバー別邸

岩崎弥太郎は高島炭鉱の国内外のすべての債務を清算し、炭鉱の独占的な所有権を確立します。グラバーは1885年(明治18年)頃まで高島炭鉱の顧問を務め、東京からたびたび高島を訪れていたため、北渓井坑の近くの小高い岬に洋風の別荘を建てました。丘の松林は潮風から、別荘を守っていました。

1880年中頃にグラバーが高島炭鉱から身を引くと、三菱はこの別荘を来賓用として使用したそうです。高島炭鉱はその後も操業を続け、1986年(昭和61年)に閉山となります。

その後、別荘は地元の研修所や集会所的な役割を果たしますが、1948年(昭和23年)に取り壊され、現在は礎石のみが残っています。

グラバー別邸跡グラバー別邸跡グラバー別邸跡

北渓井坑跡が世界遺産への登録を目指して注目されたことをきっかけに、このグラバー別邸についても、復元しようという機運が高まり、2004年(平成16年)に旧高島町教育委員会による発掘調査が行われます。2006年(平成18年)には2回目の調査が行われました(北渓井坑は2015年に「長崎の産業革命遺産」として世界遺産に登録されています)。

グラバー別邸については、正確な図面や写真が残っておらず、再現が難しい状況ですが、官民一体で地域の活性化を目指している「長崎伝習所」に2015年(平成27年)「高島グラバー別邸調査・研究塾」が設立され、CGの制作、復元に向けた取り組みが行われています。

グラバー別邸復元イラストグラバー別邸前で撮影された古写真長崎伝習所塾生募集のリーフレット

Ⅳ. グラバーのその後

幕末の明治維新に側面から多大な貢献をしたグラバーは、明治維新後の廃藩置県により、各藩に対して行っていた掛け売りの代金を回収できなくなり、グラバー商会は多額の借金を抱えて倒産します。しかし、トーマス・グラバーは国内外の要人から尊敬を集める存在であったため、グラバー商会の倒産後も様々な要職を勤め、造幣局への機械の導入や鉱山へのダイナマイトの導入など日本の産業にとって重要な役割を果たしました。

その後は、三菱高島鉱業所の所長など、三菱財閥の翼下で過ごし、晩年にはキリンビールの創業にも大きな役割を果たしています。1908年(明治41年)には、外国人として初めて勲二等旭日重光章が送られ、その3年後の1911年(明治44年)に亡くなっています。

このようにグラバーは明治維新や日本の近代化にとってなくてはならない人物ですが、そのわりには、その業績が充分知られていないようです。一般的な理解としては長崎を代表する観光地のグラバー邸を所有していた外国人商人という理解程度ではないでしょうか。

私たちはグラバーの功績や高島が日本の近代化に果たしてきた役割について、これからも調査・研究し、発信していきたいと考えています。

Ⅴ. 北渓井坑跡周辺の散策

グラバー別邸跡、北渓井坑跡、後藤象二郎邸跡は、高島の北端に集中しており、数十m程の間隔で点在しています。高島港からは、循環バスで「本町」バス停で降車すればすぐです。長崎高島水産センターは港の対岸にありますので、散策のついでに見学やヒラメの釣り体験などを楽しむことが出来ます。

また、すぐ近くには「三角溝」と呼ばれる溝の遺構がありますが、これは2枚の石板を鋭角に組み合わせた大変めずらしい溝で、別名オランダ式側溝とも呼ばれています。オランダと交易のあった長崎や平戸などに見られますが、どのように作られたのかなど詳しいことはわかっていません。

三角溝

住宅地の細い道を南の方に上がっていくと、カトリック高島教会を訪れることができます。カトリック高島教会は、明治24年(1891)信徒が拠金し、伊王島の大工峰氏の手により45坪の聖堂が現在地に建立されたのが始まりです。高島炭鉱の発展に伴い信徒数が増加し、昭和29年(1954)10月25日新聖堂を建立し、山口大司教によって祝別・献堂され、昭和31年(1956)1月10日大浦小教区から独立し高島小教区が設立されました。

高島炭鉱の閉山に伴い信徒数の減少で、2004年4月から馬込小教区の巡回教会となりました。高島信徒の先祖は宝暦年間、外海の樫山地区から迫害を逃れてきたキリシタンです。

カトリック高島教会カトリック高島教会カトリック高島教会

参考文献

  • ブライアン・バークガフニ 『グラバー家の人々』 (長崎文献社)
  • 長崎市高島行政センター 『グラバーの足音 ~足元に眠る遺構~』